財閥の起源
住友財閥の源流となったのは、住友政友(1585~1652年)の義理の兄である蘇我理右衛門(そがりえもん)(1572~1636年)が1590年に開業した「泉屋」である。銅の精錬技術(”南蛮吹き”と呼ばれた)を西洋人に学びながら確立したことで銅を扱う業界で名声を確立し、また銅細工も扱っていたという。のちに蘇我さんの子どもが住友政友の娘婿として住友家に入り、泉屋が住友家の家業となった。
ここから住友家は銅の精錬を続けながら銅山の獲得を目指し続け、1680年代に岡山県や山形県の銅山の経営に着手した(住友の歴史)。この頃精錬の事業は大阪の本拠地で100人以上を雇う日本屈指の精錬所になっていたということから、仕入れ先などとの会話を通じて、日本中の銅山の情報が住友家にもたらされたであろうことは想像に難くない※。
※このように、資本も資産も持たない状態からまずは技術を高めてサービス業を営み、やがて蓄えた情報や資産を元手にバリューチェーン上のより大きな領域へ進出する例は産業史には多く見られる。例えばヤンマー創業者の山岡孫吉さんは、1905年に大阪ガスに雇われてガス管工事・修理に従事し、ガス管やガスエンジンの知識を身につけて顧客との接点も獲得した後、1907年にはガス管を仕入れて工事・納品する事業を始め、さらに資本を蓄えた後には中古ガスエンジンを購入して自ら修理・販売する事業を始めている(「私の履歴書」日経新聞より)。セイコー創業者の服部金太郎さんは、1870年代に時計店に奉公して時計修理に従事して時計修繕の技術を習得し、やがて資本を蓄えて1880年代に自分の時計店を構え、古い時計を仕入れ修理・販売する時計店を開業した。さらにそこから仕入れルートを広げて輸入時計販売まで手掛ける、優れた技師を雇って自社での時計製造を実現する、といったステップを経てセイコーを発展させてきた(セイコー公式サイト)。現代でもこのような事例は見られる。比較的新しい産業でいえば、経営改善の技術を学んだサラリーマンが、やがて既存の会社を買収して経営改善して売却するPEファンド事業を展開するようになる数々の例もこの現象の一部であるといえる。
住友家が大きく事業を拡大させたのは1691年に愛媛県の別子銅山を開坑してからである。この銅山は産出量が多く、その様子は住友グループの公式サイトでうかがわれる。
- 1695年には別子銅山に2700人が暮らす鉱山町が形成された
- 開坑後7年で(1698年)、日本の産銅高の4分の1を占めるほど銅を算出する状態になっていた
以後、住友家は銅山開発を中心に成長を続けてゆく。
「住友近代史の研究」(住友資料館)によれば、19世紀終盤でも住友財閥の利益のほぼすべてが別子銅山からもたらされており、銅関連産業がメインでなくなるのは住友銀行や倉庫事業が伸びてくる1920年代である。ここから、多様な事業を有する巨大な事業集団となり、いわゆる財閥としての形が出来てくるといえる。
※国会図書館の定義では、財閥とは「ひとつの一族を権力の中心とする企業の巨大連合体に使用される」用語である。
- 1890年:住友財閥の純利益=215千円、別子銅山の純利益=197千円
- 1900年:住友財閥の純利益=1,589千円、別子銅山の純利益=1,271千円(、住友銀行の純利益=428千円、他事業で損失あり)
- 1910年:住友財閥の純利益=965千円、別子銅山の純利益=677千円(、住友銀行の純利益=578千円、他事業で損失あり)
- 1920年:住友財閥の純利益=15,064千円、別子銅山の純利益=▲480千円(、住友銀行の純利益=13,840千円)
住友財閥のガバナンス:住友家の経営リード時代
泉屋の創業以来、住友家一族は銅事業を育成し続けている。住友公式サイトで公開されているマンガ(!)のエピソードを読む限り、17世紀などは住友家の人々が積極的に事業をリードして銅事業を伸ばしてきた様子である。
18世紀には、「住友近代史の研究」から住友家から事業を担う使用人幹部(手代)あてに何度も、「良い策があれば伝えてほしい」と経営への協力を呼びかけていることなどが伝えられていることが分かる。住友家を主人とあおぎつつ、使用人も経営方針を一緒に議論しながら営んでいたようにも思える。
住友財閥のガバナンス:経営を担う店員の登場
このような組織の中で、住友財閥の発展を大きく進めた人物である広瀬宰平(1828~1914)が登場する。
広瀬さんは別子銅山に勤務する人の親戚に生まれ、幼いころから別子銅山の村に来て住み、1838年には(10歳ほどで)住友家で働き始めたたたき上げである。そこから独学で必要な知識を集めながら仕事を覚え、1865年には別子銅山の支配人を任されたほか、別子銅山の開発で飛び抜けた実績を築き、住友家に対して非常に重要な人物となる。
- 明治維新を経て政府が別子銅山を接収しようとした際には明治政府と別子銅山の経営を住友家に任せ続けるべきであることを議論し、主張を認められて住友家に別子銅山を残せた
- 1868年に鉱山開発の役人(鉱山司)として採用され、政府の一員となった。日本各地の鉱山を政府の開発担当者として回り、その過程でお雇い外国人のフランス人技師コワイエから鉱山近代化技術も学んだ。役人は1869年に辞めて、住友に復帰した
- 1873年には住友家当主の住友友親から「別子銅山近代化のための外国人雇い入れ事務」を委任された
- 1875年には同じく住友友親から、本店並びに出店取締り、別子銅山の経営全般、外国人対応を全て委任された
住友財閥のガバナンス:店員が経営を担う体制の制度化
ここまで広瀬宰平が経営を任されたのち、1876年末頃に、広瀬宰平は住友家と経営の分離の手始めとして、家(住友家の本家が置かれた大阪市中央区の拠点)と店(当初は出店として作られた大阪市西区の拠点)を分け、出店を「本店」と呼び、それまで本店だった本家の所在拠点を「本家」と呼ぶルールにした。
次いで、1876年に住友家の側で本家当主を「家長」と呼ぶことにするとともに、「本家第一之規則」が制定され、前年の「住友末家規則」とともに住友家内のルールを定めて事業成功を重視する姿勢を打ち出した。
この時点では明確に住友家の権限を制限する規程は無いように思われるが、1877年には住友家当主(住友友親)から広瀬宰平を「総理代人」という地位に就け(名称は後に総理人⇒総理事と変わった)、商法上の一切の事務の総括を委任していることを新聞で世上に広告する措置を通じて、少なくとも広瀬宰平の権限は全面的に認められた。
1882年の住友家家法は、広瀬宰平の起草によるもので、住友家の事業の決裁権限を定める規定があったが、ここで別子銅山に関する決裁は全て別子銅山の支配人・副支配人・理事で、家長抜きで行えるように定められた。
1891年の家法でようやく住友家の権限と事業統治の権限が明文で分離され、総理人が住友家の事業に関する「全部の事務を総理監督」することが定められた。(以上、「住友近代史の研究」)
つまり、住友財閥のガバナンスは、突出した個人(広瀬宰平)が経営を全て任されていった経緯が先にあり、その実態を後から認めるような形で「所有と経営の分離」に至ったといえる。
ただし、前述の通り支配人一人ではなく「支配人・副支配人・理事」で別子銅山を経営することを規定していたり、広瀬宰平の重役会が人材を広く社内外から募った経営チームを構成していることからすると、総理事が本当に経営をある程度任せられるチームを形成して経営にあたる体制を作っていたのだと思える。(「住友近代史の研究」)
- 重役会構成:
- 総理人兼別子銅山支配人=広瀬宰平、
- 本店支配人=元裁判官で1879年にスカウトした伊庭貞剛
- 理事=文部省から1881年にスカウトした田辺貞吉
- 理事=たたきあげの長谷川健介
- 理事=工部省から1878年にスカウトした大島供清
- 理事=(経歴不明)久保盛明
ほか
その後
広瀬宰平は住友財閥を大きく育てる強烈なリーダーシップを発揮したほか、大阪で薩摩藩出身の五代友厚を支え、大阪商法会議所の副会頭、大阪証券取引所の副頭取などを務め、大阪の経済界に貢献した(住友公式サイト)。
しかし強烈なリーダーシップで展開した事業が世間で問題を起こした際、住友内でも反発が起こり、引退するに至っている。住友家は貢献を高く評価し、終身住友家のメンバーとして遇したという。引退後も悠々自適に過ごし、87歳とこの時代では突出した長寿を全うしている。
- ”明治26(1893)年9月、新居浜では製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、農民暴動を引き起こした”
- ”住友内部から宰平の事業方針が時代に合わないと誹謗中傷する向きが現れた”
- ”(1894年に)宰平は家長友純(ともいと)の実兄西園寺公望(さいおんじきんもち)から住友家の将来に悪例を残さないよう「懇話切々」と勇退を諭された…(中略)…宰平は自ら決断して、住友家総理人を辞職した”
- ”住友家は宰平の長年にわたる功労に対して、終身住友分家の上席に列し、総理人の資格をもって礼遇した。”
住友財閥はその後も広瀬宰平に続いて別子銅山および経営多角化をリードする総理事の数々に恵まれ、銀行業など新たな事業で成功を収めて現代に至っている。広瀬宰平という個人があってこその経営組織像が作られたように思われたが、経営は総理事をトップとしつつもチーム制が取られ、他の者がリーダーを務めても上手く回るようになっていたのだ。
まとめ
以上、住友財閥は優れた個人に率いられた経営改革が起こり、経営組織化が成ったことがわかる。これは三井財閥のケースとかなり異なるが、現代でも人数の比較的少ない中堅中小企業を想定すれば、十分に起こりうるガバナンス改革の例であると思う。
経営権を一身に任される優れた個人を経営改革の軸としつつ、その者を中心に経営チームを構成してチームで経営にあたる体制を築き、企業グループを長く繁栄させる…というパターンは今後も有効な経営改革の手段になるだろう。