PEファンドと資本提携を決めた社長のインタビュー記事を読むと、その多くで経営体制を整えることが目標の一つに挙げられている。創業社長が中心となって引っ張ってきた企業だと、創業社長が引退を意識した際に経営体制の持続性が不安になるものなのだろう。
しかしこのような不安は昔から繰り返しあったはずだ。PEファンドのような存在が無かった時代、他社の参加には入らずに社内の混乱を抑えながらチーム制に移行したい企業はどのような対応をしたのだろうか。
古来からある財閥の歴史を辿ってみたい。
三井財閥の草創期
三井財閥は、公益財団法人三井文庫により発刊された「史料が語る三井のあゆみ」によれば、三井高利(1622-1694)から本格的に始まる。高利さんは三重県松阪市の商人の家柄に生まれ、江戸で修業し、松阪に帰郷して金融業を営み、1673年(52歳の時)に再び江戸に進出して大規模に呉服屋を起こした。「現金掛け値なし」で知られる越後屋である。
最初は今の中央区日本橋本石町に店を開き、1683年には大火事をきっかけとして中央区日本橋室町に店を移転し、この地が三井の事業の拠点となった。散策してみれば分かる通り、300年以上を経た2026年現在も三井の一大拠点である。
経営はこの頃三井高利氏個人により差配されていたようで、社内ルールが整って組織的に運営されたりしていたわけではない。その代わりに三井高利が子供たちや奉公人に説いた言葉が伝わっており、平和のありがたさや健康を大事にすること、新しい方法を試すこと、勤勉や節約などが説かれていたようだ。これらが暗黙裡に経営理念となって経営層や従業員たちに行き渡っていたのだろう。
やがて江戸幕府の御用商人(将軍家の衣類も扱う)になり、幕府の金融も一部(年貢米の売却した金銀の取扱い)を担うようになり、仕入れ組織や糸や絹を扱う店舗を新設するなど、事業領域を拡大した。
創業者没後の創業家内でのチーム制移行
やがて三井高利の1694年没後、子孫たち(三井11家)で共同経営が為される体制となり、各店舗は三井高利の雇った人々が育って運営するようになった。
事業全体の統括が困難になったことから、1709年に全店舗の重役と三井家一族の会議体である「大元方」という統括機関が作り出され、月二回会議が持たれて経営の最高意思決定機関となった。
このタイミングで全店舗の資産状況が改めてチェックされて以後も財務状況が記録されたということで、財閥としての姿がまとまったのは1709年の統括機関設置であるということになりそうだ。
1722年には家訓を取りまとめた宗竺遺書(そうちくいしょ)という書物がまとめられ、財閥運営の家法が定まった。ここにあるルールは下記など50項目であるが、三井家の生活費用や事業への関わり方、分家や隠居など細かく取り決められており、三井家の支配が一定制限されたともいえる。
- 結婚、負債、債務の保証等については必ず同族の協議を経て行わねばならぬ。
- 人は終生働かねばならぬ。理由なくして隠居し、安逸を貪ってはならぬ。
- 他人を率いる者は業務に精通しなければならぬ。そのためには同族の子弟は丁稚小僧の仕事から見習わせて、習熟するように教育しなければならぬ。
創業家関与の制限と経営チーム制確立
しかし三井家のなかで次第に浪費による借財が積みあがったことがその後の歴史から分かっており、端的に言えば守られていなかったことが伺われる。
”大元方からの支給額を超えた浪費を続け、借財を重ねるものが出、これに営業不振が加わり、三井同苗(一族のうち創業一族とみなされた範囲の人々)間の不和が生じた。1774年から1797年には、(一族で財産を共有するという)身上一致の原則を崩し、三井11家と事業が三分されるという危機的な事態となった。…(中略)…また文政期(1820年代前後)には、三井同苗中の重鎮の借財がかさみ、幕府の京都町奉行所や紀州徳川家が解決に乗り出す事態となった。”(「三井のあゆみ」)
政府を巻き込む深刻な創業家トラブルが起こっていたことがうかがわれる。
このような創業家トラブルを続けながらも、有能な従業員(三野村利左衛門(1821-1877)など。三野村さんは幕府と三井家の間で三井家に賦課される御用金を減らす交渉を成功させたり、三井家の財務危機時には英国の銀行から資金調達して倒産を防いだ。)を引き立てて活躍させることなどにより幕末~明治初めの動乱期が乗り越えられた。事業拡大の簡単な歴史は下記だ。
- 大元方を、明治維新後には1871年に元々の京都に加えて東京にも設置した(1873年には京都大元方を出張所として東京一極体制へ)
- 1876年には日本初の私立銀行として三井銀行を開業した
- 1876年に三井物産を明治の元勲である井上馨の貿易事業(先収会社。益田孝が経営)を引き継ぐ形で設立した。
拡大した事業(三井銀行や三井物産)はそれぞれ中上川彦次郎(1854-1901。井上馨が1891年に三井銀行にスカウト。それまでは三井家出身者などで経営したが不良債権を積み上げたため井上馨が経営層を変えた)、益田孝(1847-1938)といった有能な経営者に任せ、採用方針など経営全般は彼らによって決められていた。
規模を大きくした後の1900年に宗竺遺書に替わる財閥の規範として井上馨(1835-1915)侯爵主導で三井家憲が制定された。これこそが三井財閥にとって、それまでのトラブル続きだった経営体制を刷新するガバナンス改革にあたる。
この家憲は法学博士の穂積陳重と都築馨六も関与して100項目以上からなるルールとして制定され、三井家が負債を作ることや保証することが禁止され、他の会社への勤務に同族会の許可を要するなど、財産管理はより強く制限された。たとえば下記などがその内容である。さらに井上馨を顧問にして遵守を監督するよう定めている。
- 三井家の範囲を三井11家に固定
- 同族の義務として三井財閥の企業で働くこと
- 政党加入の禁止
- 借金・債務保証の禁止
さらに1909年には三井家の所有と事業統括を分け、事業統括を行う組織として三井合名会社が設立され、三井家の所有と三井財閥の経営とが分離された。
三井合名会社は第二次世界大戦後の1945年に財閥解体されるまで、各社役員・幹部人事の権限や業務報告をさせる定例会をもち、グループ会社を経営していた(頻度や定例会参加者の範囲など詳細は不明)。
1909~1945年の期間は戦争のため成長には制約がかかってしまったが、金融、不動産、貿易、鉱山など事業領域の成長や更なる多角化を実現し続けた時期であり、三井家によるお家騒動も起こらず、それらの実績からすれば三井家憲と三井合名会社によるガバナンスは有効に機能していたのではないかと推定される。
現代の経営に向けた意味合い
こうして三井財閥の歴史を振り返った時、創業一族と経営の関わり方を整理するにあたって有力な外部勢力(井上馨侯爵)が携わったことで、創業一族と経営層の合意が得られる状態へとスムーズな移行を出来たのではないかと推察される。
ガバナンス改革で井上馨の担った役割は、
- 所有者と経営実務者双方が合意できるようなガバナンス体制のドラフト案を作り出せるような専門家を連れて来た(このケースでは三井家憲ドラフトを作成した穂積教授など)
- 創業一族と経営層を一堂に集めて議論する場を設けて理解を深めた
- 三井家憲制定式を開いて渋沢栄一など財界有力者を巻き込むなど、ステークホルダーたちの合意を固めた
この方法が有効な理由は多々考えられる。主要なメンバーを一堂に集めて意見を全て議論の遡上にあげることができる、組織運営の有識者の知恵を活用できるので一定の納得感がある合意には出来る、有力者を対面で巻き込んでおり後から不平不満を言いづらい…等々だ。
創業家や経営層たちなど新旧経営陣に影響力を持つステークホルダーを登場させ、経営体制を整えて次世代に継いでいくという流れを担う「PEファンドを通じた経営体制の整備」という現代の実務に通じるところがある。
おそらく、抽象化して考えてみれば歴史上よくある一つの型なのだろう。現代ではそれがたまたま「PEファンドの資本提携」という形で表現されているのではないかと思う。この仕組みを活用し、歴史に学んだスムーズな移行が広く各地で行われると社会にとって良いと思う。
三井家のケースでは個人的なリーダーシップ⇒創業家チーム制⇒経営チーム制、と2回のガバナンス改革を成し遂げていたが、途中の1ステップを飛ばした創業家の個人的なリーダーシップ⇒経営チーム制、というガバナンス改革は米国や20世紀の日本でも多く起こっており、日本では多くの場合「常務会」設立の形をとったことは他の記事で取り上げている。ガバナンス改革は組織で事業を営む限り人々の悩みの種なのだと思う。