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産業史の読み解き

カーブアウトされた非コア事業の飛躍事例

公開日:2026/8/24

経済メディアを見ていれば、多くの事業を運営する大企業が非コア事業をカーブアウトして売却する報道も、売却された非コア事業が自ら活路を見出して成長し上場するような事例も報道されている様子が出てくる。登場するステークホルダーは事業会社間やPEファンドなどケースにより様々ながら、大筋でこのようなパターンは一般的なものに思える。

それでは、このような企業成長パターンはいつからあるのだろうか。「ポートフォリオ経営」や「選択と集中」といった言葉が飛び交うようになって増え出した時期などあるが、産業史をさかのぼれば更に昔からある話だ。古くカーブアウトされていれば成長も大きそうだ。安定的な日本の大企業まで成長した事例は何か無いだろうか?…と古い文献をあたっていくと、そのような例が見出される。日本の場合、1945年の敗戦で産業界に大きな再編が起こったが、特にこの頃に企業の支配が株主も経営層も大きく入れ替わり、企業によってはその後の努力で上述の成長パターンを実現しているのだ。

三井家所有からの三井不動産の離脱:

三井不動産と言えば今でこそ三井財閥の主要企業のように各種経済誌で扱われ、東京の大規模開発を主導する不動産業界のリーダー企業の一つだが、戦前の三井財閥をみると全然違った姿が見えてくる。三井グループの不動産メンテ会社なのだ。

  • 三井不動産の有価証券報告書では、2000年度(平成12年4月1日から平成13年3月31日まで)の【会社の沿革】で、下記の記載がある。
    ”当社は、三井総元方の三井改組計画により、旧三井合名会社所有の不動産の経営を主たる目的として、昭和16年7月15日、資本金300万円をもって、三井不動産株式会社として設立された。創立以来、事務所用ビル等の賃貸・管理を営業の中核としていたが、昭和30年代から経営の多角化をはかり、昭和32年千葉県臨海地区の浚渫埋立に着手して臨海土地造成事業に進出、…(以下略)”
    つまり、1941年設立から1957年までは、もっぱら三井グループの不動産管理をしているのである。

  • 会社設立前までさかのぼると、三井文庫で自らグループを振り返る「三井のあゆみ」では、三井不動産の原型が三井合名会社に1914年に創設された一つの課「不動産課」であることがわかる。彼らのこなした大仕事が1924年に決定された三井本館建設(米国の建設業者とやり取りして最新技術で設計、政府内の関東大震災の復興部署と連携しながら建設)であることが言及されている。この本館は1929年に完成し、今も重要文化財の指定を受けて日本橋室町にその姿をとどめているほどだから、不動産管理といっても活気ある部署だったと想像される。

  • 1929年の三井財閥の直系会社は金融3社(三井生命、三井信託、三井銀行)と三井物産、東神倉庫(1942年に三井倉庫に改名)、三井鉱山(化学事業まで進出していた)である。1929年頃の三井合名会社の収益は傘下企業からの配当金だったというから(金融機関を除いて100%子会社)、コア事業は金融、商社、物流、鉱山、化学といったところだ。
    不動産管理は非コア事業であった。戦後も不動産管理のみ続けていたことの記述が江戸英雄氏の「私の履歴書」にあり、特に期待され投資されることもなく、細々と既存設備の保守・管理に徹していたのだろう。

この体制が、戦後の財閥解体で終了した。
1945年8月に終戦、すぐ後の11月に三井本社解体が決定され、三井高公社長から全社員にアナウンスされたのち、1946年に清算手続きが始まり、三井家の保有株式は全てGHQ創設の持株会社整理委員会に移されて一般に売却され、対価の弁済は国債でなされたというスピード感であった。ここで三井家による三井財閥株式保有は終了し、さらに公職追放令などで役員も退陣した。
三井不動産中興の祖である江戸英雄氏の「私の履歴書」には、この時の様子が言及されている。

  • ”三井本社社長三井高公氏は、本社社員全員を社員食堂に集め、悲壮な解体のあいさつをした。皆泣いた。私は瓜生氏と一緒に泣きながらあいさつ案を起草したのであったが、聞いた時も涙を止めることができなかった。その後本社の解散、役員の退陣、傘下会社支配の廃絶、財閥解体手続きのため特設された持株会社整理委員会の手による持ち株その他全財産の換価処分など、一連の解体方策が峻烈に強行された。”
  • ”三井家は、直ちに三井本社その他一切の会社役員から追放されたのみならず、すべての企業に関与することを禁ぜられ、持株会社整理委員会の監視の下に全財産は封鎖され、その処分はいちいち承認を要するものとし、生活費は予算により承認を受け、…(以下略)”
  • ”(三井不動産社長の佐々木四郎氏は)戦後高公氏のあとを受け、三井不動産の社長に就任したが、公職追放令で退陣した。”
  • ”(1941年創立時)資産は、三井本館を主とする日本橋室町一構のビルのほか建物約二万坪と、兜町の株式取引所一帯、内幸町、神田一円を主とする貸地などの土地約二十万坪で…(中略)…小さな不動産会社であった。”

しかし、戦後処理のなかで、さらに10年間にわたり、不動産管理会社を抜け出しデベロッパーへと飛躍する変化は起こらなかった。三菱地所は同時期に新たなビル建設に積極的に乗り出したというから、江戸社長の「私の履歴書」に詳細は記されていないが、経営トップの交代後にも経営方針の刷新は起こらなかったのであろう。ようやくビル管理以外の事業を始めたのは1955年の江戸英雄氏の社長就任後である。

つまり、1955年になって、株式所有者・経営者・経営方針がそろって変わったわけで、いわば「カーブアウトされてPEファンド投資を受けた非コア事業の会社」という状態になったのである。

三井不動産の飛躍:


飛躍の第一歩は京葉工業地帯の開発への進出だった。江戸社長によれば、日本が経済成長すれば大量の原料輸入と製品輸出を行うことになると読み、大型港湾の造成と海岸工場用地造成を必要にすることを予想したのだという。(「私の履歴書」)

同書籍で、この京葉工業地帯開発プロジェクトを進めるにあたっては、人材・資金・資材獲得に社内を超えた支援を集めていることがわかる。その上で、千葉県知事など行政各所と連携をとってプロジェクトを進めている。

  • 人材招聘:
    • 埋め立て施工チームとして港湾会社設立
      • 1957年~の社長に化学業界から、三井化学OBを招聘
      • 1963年~の社長に建設省から幹部を招聘
      • 技術陣に化学業界のベテランと運輸省OBを招聘
  • 資金調達:
    • 日本不動産銀行から融資獲得
    • 開発の一部の千葉市街地エリア開発では、三菱地所・住友不動産を共同出資者に招聘
  • 資材獲得:
    • 浚渫埋め立てに必要な船が無く、三井造船や昭和電工などに話しかけて進出

このプロジェクト成功で、港湾、工業設備、都市開発といった一連の事業を手掛ける実績を積み、デベロッパーとしての一歩を踏み出し、時を経て最大手デベロッパーまで成長したのだ。
成功要因となった要素をみると、資材獲得は特殊であるものの、人材招聘や資金調達、行政を含む関係各所との交渉というのはPEファンド投資案件と同様な支援であると思う(PEファンドも、独占禁止法対応など関係各所と交渉を行う)。PEファンド投資であるかどうかに関わらず、非連続な成長方針を掲げて成功させる際には、このような手配が必要になるのだと考えられる。

このプロジェクトに携わった江戸社長直下のチームは、内部のメンバーも招聘されてきた人々も含め、非常にやりがいがあっただろうと思う。現代でも事業会社で経営体制によってはこのような局面があるかもしれないし、PEファンド案件はわかりやすくこのような局面である。江戸英雄氏はそのプロジェクト成功にとても充実感を持ったようだ。
”しゅんせつ埋め立て事業は、全く新しい事業部門であったが、昭和三十年以降の、日本の重化学工業の躍進を背景に、予期以上の成果を得、三井不動産発展の跳躍台になった。かたがた日本の高度成長にいささか寄与し得たことを幸せに思っている。”

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