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産業史の探究

創業者の事業転換と金融業界:大谷米太郎社長(ホテルニューオータニ)など

公開日:2026/8/9

最終更新日:2026/9/27

ホテルニューオータニは、帝国ホテル、ホテルオークラ等と並んで日本を代表するホテルである。「1964年の東京オリンピックに向けてホテルを作ってほしい」と東京都や国から実業家の大谷米太郎に声がかかり、実際間に合うように建設・開業されたということらしい(「私の履歴書 大谷米太郎」日本経済新聞社)。

この大谷米太郎(1881 - 1968)という人は、31歳で小作農を辞めて上京し、日雇い労働から昭和時代有数の大企業である大谷重工業(主に製鉄業)を創業した人物だ。(同社はその後資本提携を経て、今の日本製鉄に合流している。)

この大企業創業までの足取りは「私の履歴書」に語られているが、要点は下記だ。

  • 1881年、富山で農家に生まれ、小学校だけ出て、小作農と冬の間の造り酒屋での下働きに従事した
  • 1911年4月に31歳で上京。農業で鍛えていた身体を活かして港湾での荷揚げ労働に携わり節約する生活を2か月続けて貯金した
  • 1911年6月から1年近く、商売を学ぶために甘酒の売り子、八百屋、銭湯、酒屋、米屋など転々としながら下働きした
  • 1912年5月頃、相撲米国巡業の噂を聞きつけ、体格を活かして相撲部屋に入った。米国巡業は無くなったがそのまま力士を続けた
  • 1913年7月、酒屋(酒の小売店)を開業した。やがて支店を増やし飲食店にも進出した
  • 1915年6月、酒屋で貯めた自己資金と借入を投入して、鉄鋼ロールを製造する下請け工場を建設した(技術は酒の納品先から学んだ)
  • 1923年の関東大震災で工場が焼けるが機械は残り、酒屋と飲食店をしながら工場を再建した
  • 1930年代に兵庫県尼崎や東京都羽田、中国の満州に製鉄所を建設して業容を拡大した
  • 1940年に大谷重工業を設立して手掛けていた事業を統合した
  • 戦争で資産は半分ほど失われたが、再び再建に乗り出した。他の企業の再建にも何社か手を貸した
  • 1964年にホテルニューオータニを開業した(公式サイトに当時の写真も)
  • 1968年に大谷重工業は八幡製鉄所の資本参加を受けて統合した(その後何度かの統合を経て今の日本製鉄へ合流)

ここで気づくことの一つに、最終的に鉄鋼業で財を成したが、当初は酒屋や飲食業を創業して力を入れていたことだ。鉄鋼業が軌道に乗ってからは「私の履歴書」のなかで話題にあがらず、おそらく事業を整理していたことだろう。

この鉄鋼業を育成する過程で強調されているのは資金不足の辛さである。

  • ”大正8年、私は「東京ロール製作所」を下請けから一本立ちにした。しかし、いざ独立するとなると、金がたりないので、またまた酒屋の方の金と高利貸しからの借金とで8万円程(2026年現在の価値で5000万円程)の資金を作った。”
  • ”高利貸しが毎日毎日カバンを持って工場へ借金取りにくる。。私が工場にいないと酒屋の方へ行って待っている。酒屋の方は家内が一人で切り盛りしていたのだが、家内もしかたがないからその高利貸しに酒を一杯飲ませて待たせている。私は借金を払う金がないから店へ帰ることもできない。”
  • ”その間、酒のご用聞きをして高利貸しの帰るのを待ったのである。いっぺん、ぐるりとご用聞きして店に戻ろうとすると、まだ高利貸しがいる。しかたがないので、またひとまわり。”
  • ”この返済の苦しさから、私は借金は絶対にしてはならないとつくづく思った。”

ずっと手元で酒屋も飲食業も続けていたことから大手同業から「買いましょう」という話はなかったのだと思うが、仮に酒屋・飲食事業をもっと早く現金化できていたら、鉄鋼により早く進出できて、もっと大きく育てていたかもしれない。酒屋・飲食事業の蓄えから鉄鋼ロール圧延工場を作る資金を一部捻出できたぐらいだから、毎年多少の利益は上げられていたことは確実である。

日本の経済史のなかには、事業の転換期に資金不足で撤退してしまった有望な経営者も多くいたかもしれない。

創業と事業転換

創業する件数は今でも多い。政府統計の総合窓口によれば、過去数年では年間10万件を超え続けている。コロナ前後で比べると、コロナ後に一時的でなく増加している様子も見られる。

(設立登記件数)

  • 2018年:11万6,208件
  • 2019年:11万8,532件
  • 2020年:11万8,999件
  • 2021年:13万2,343件
  • 2022年:12万9,548件
  • 2023年:14万1,452件
  • 2024年:14万 475件
  • 2025年:14万5,357件

これら年間10万人を超える創業者たちの中にも、大谷さんのように、大きな事業をいずれは手掛けたいと思いながらまずはローカル産業で創業し、チャンスを伺う者があるのではないか。そういった人が、「まだ売上が中途半場な規模で、上場や他事業会社への売却には遠い…」という段階で経営を担える組織に売却をしたい場合、スモール~ミドルキャップのPEファンドは事業売却の受け皿となり、さらに大きな成功を目指す創業者たちに資金提供する役割を果たせるのではないか。

事業転換自体はそもそも多くの企業の創業期に見られる事象である。黒字化した事業があっても、より大きな利益を求めて、そこから注力する事業を変えていくのだ。大谷さんのようにローカル産業から事業を転換していって重工業の大企業へ、というパターンは今は希少だと思うが、製造業が重点的に製造する主力製品を変えていくことはよく見られる。下記などは「私の履歴書」で観察されるごく一部の例である。

  • 立石電機(オムロン):レントゲン用タイマーで利益を出していたが、その部品である保護継電器(電流・電圧の調整機器)製造に注力
  • 松下電器(パナソニック):電灯用のプラグ製造で利益を出していたが、自転車ランプの製造に注力
  • ブリヂストン:均一足袋(大正時代までの靴のようなもの)の製造で利益を出していたが、自動車用タイヤの製造に注力
  • 早川電機(シャープ):ベルト金具や水道蛇口の製造で利益を出していたが、繰り出し鉛筆(シャープペンシル)の製造に注力
  • 東京通信研究所(ソニー):ラジオ用コンバーター(変換装置)の製造で利益を出していたが、レコーダーの製造に注力

製造業だと、製造技術の特許の問題があり本当に一部を切り離して売却できるのか要注意ではあるが(そこに使われている技術を今後使えなくなるかもしれない)、切り替えられて注力先でなくなる側の事業を資金に変えてあげる点において、PEファンドは売却する側の創業者にとっても、そのままでは注力してもらえなくなる旧主力事業にとっても有用であると思う。

創業者にとっては利益を溜めてから新事業に注ぎ込むという過程の待ち時間が無くなる。

旧主力事業にとっては、少なくとも多くの実績を持つPEファンドは、既存投資先などとの関係から投資先企業に経営を担えるような多才な人材を呼び寄せることが出来る。ファンド内のメンバーにも経営支援のノウハウを蓄積していて、投資出来た場合に経営管理体制を作り上げることが出来る。事業存続・発展という意味で安心できる業態である。足袋のような、急速に市場そのものが小さくなる事業だと苦しいが…。

経済政策との整合

日本の経済政策では、100億円企業(売上100億円以上の企業。大型投資や海外進出の担い手になると期待される規模)のより多くの創出が目指されている。おそらく一件ずつかなりの工数をかけて限られた中~大型案件に取り組んでいる今のPEファンドが今後人手や資金を増やし、或いは簡素な経営支援サービスの在り方を確立するなど(過去記事を参照)すれば、やがては野心ある創業者たちが100億円企業を作り出す動きを支援するようにも出来るだろう。
また、C-Unitedの記事でみたように、PEファンド自身が事業を拡大させて100億円企業まで育てることが出来るかもしれない。

PEファンド産業が日本の経済史に多く現れた偉人たちのような、一代で大事業創出をもたらす人々をより増やしてくれる強化装置になることを期待したい。

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